院主のブログ
母の命日(23回忌に当たって)
2024/10/06 19:57
親の片思い ~仏となった今も休まず 私のために~
2024年10月1日 母23回忌を偲んで
「 今にして 知りて悲しむ 父母の われにしましし その片思い 」
窪田空穂さんが70歳のころに読まれた歌だといいます。
若いときには 自分のことだけ、自分の努力しか気づかずにいます。成人し親になると
自分が子どものために苦労していることしか感じていません。子どもも成長し、人生をふり返ってみると 自分が子どものために努力し苦労した以上に、自分の父母はもっと苦労してくれたのだとやっとわかったとの感激と慚愧の歌です。
片思いとは 相手には気づかれないものです。思われている方はまったく気づかないものです。思い出せば あれもこれも親の強い思いであった、この私のためこの私の幸せを思っての大変なご苦労であったと、やっと味わえたと。
先日、南こうせつのコンサートに行ってきました。皆さんも、『神田川』『夢一夜』は、聞いたことがあるでしょうか?
そこで、『好きだった人』と言う歌を聴きました。
「好きだった人 ブルージーンを履いていた、 好きだった人 白いブーツを履いていた、
失恋という言葉は知ってたけれど 失恋という言葉は知ってたけれど・・・」
なんだか、涙が出てきてしまいました。
「言葉は知っていても、経験してみるのとではまるで違います。」
京都時代に、「一週間くらい、消沈して、げっそりしてた人を知ってますが」たぶん失恋だったと思います。
「言葉は知っていても、経験してみるのとではまるで違います。」
私も通風は痛いと聞いていました。先日通風の症状が出ました。痛いの表現が違います。
足をつけません。何しても痛い、あいた口が塞(ふさ)がらない。・・・
「知っている」のと「経験する」では大違いなんです。
でも、失恋はまだ良いんです。その前に、両思いの楽しかった頃の良い思い出が有ります。
しかし、片思いは辛い、相手は気がつかない、たとえ知ってても振り向いてくれない。
父の、母の子供に対する思いは、一方通行・「片思い」だったんです。
私の話で恐縮ですが、私たちは、今よりも生活が大変だった時代に育ちました。私は、やんちゃもしたし、良く怪我もしました。でも、健康に育てて頂いた。
また、大学(大学院ではありません)も二年も多く京都で勉強させて頂いていて、いや社会勉強させて頂き。他人よりも心配も余分な学費も出してもらったのに、その時も社会人になっても、直接お礼も感謝の言葉も伝えていなかった。伊東で心配してる両親がいることさえも忘れていました。
東京で独立し、子育てが始まると。今度は、自分の子供への思いがつよくなり、子供から感謝の言葉もないなと思っていても、自分を育ててくれた年老いた両親の私に対する思いに心を砕いたり、感謝の表現もしてこなかった。そのことにも気づいていなかったと、今懺悔しています。
そして、亡くなって仏様になられた父母は、今もまだ、私に「私たちを生かそうとしている全ての働き(阿弥陀)に気づき、その喜びを感じて欲しいと」「貴方にかけられた阿弥陀様の願を、そのままの貴方を『仏にする』と言う働き」に気づいてくれよ、感じてくれよ、と働き続けて『片思い』されているんです。
『花(を)咲かす 見えぬ力(働き)を 春という
人となす 見えぬ力を 仏という 』真宗大谷派の掲示板より
法事をして、亡き方に「成仏」して戴くのではなく。
この私が、「真実に目覚め、生かされて生きている、本当の私を生きる者と成る」『成仏』することが大事。
念仏成仏是真宗
20024年初秋 院主 遠山久敬
2024年10月1日 母23回忌を偲んで
「 今にして 知りて悲しむ 父母の われにしましし その片思い 」
窪田空穂さんが70歳のころに読まれた歌だといいます。
若いときには 自分のことだけ、自分の努力しか気づかずにいます。成人し親になると
自分が子どものために苦労していることしか感じていません。子どもも成長し、人生をふり返ってみると 自分が子どものために努力し苦労した以上に、自分の父母はもっと苦労してくれたのだとやっとわかったとの感激と慚愧の歌です。
片思いとは 相手には気づかれないものです。思われている方はまったく気づかないものです。思い出せば あれもこれも親の強い思いであった、この私のためこの私の幸せを思っての大変なご苦労であったと、やっと味わえたと。
先日、南こうせつのコンサートに行ってきました。皆さんも、『神田川』『夢一夜』は、聞いたことがあるでしょうか?
そこで、『好きだった人』と言う歌を聴きました。
「好きだった人 ブルージーンを履いていた、 好きだった人 白いブーツを履いていた、
失恋という言葉は知ってたけれど 失恋という言葉は知ってたけれど・・・」
なんだか、涙が出てきてしまいました。
「言葉は知っていても、経験してみるのとではまるで違います。」
京都時代に、「一週間くらい、消沈して、げっそりしてた人を知ってますが」たぶん失恋だったと思います。
「言葉は知っていても、経験してみるのとではまるで違います。」
私も通風は痛いと聞いていました。先日通風の症状が出ました。痛いの表現が違います。
足をつけません。何しても痛い、あいた口が塞(ふさ)がらない。・・・
「知っている」のと「経験する」では大違いなんです。
でも、失恋はまだ良いんです。その前に、両思いの楽しかった頃の良い思い出が有ります。
しかし、片思いは辛い、相手は気がつかない、たとえ知ってても振り向いてくれない。
父の、母の子供に対する思いは、一方通行・「片思い」だったんです。
私の話で恐縮ですが、私たちは、今よりも生活が大変だった時代に育ちました。私は、やんちゃもしたし、良く怪我もしました。でも、健康に育てて頂いた。
また、大学(大学院ではありません)も二年も多く京都で勉強させて頂いていて、いや社会勉強させて頂き。他人よりも心配も余分な学費も出してもらったのに、その時も社会人になっても、直接お礼も感謝の言葉も伝えていなかった。伊東で心配してる両親がいることさえも忘れていました。
東京で独立し、子育てが始まると。今度は、自分の子供への思いがつよくなり、子供から感謝の言葉もないなと思っていても、自分を育ててくれた年老いた両親の私に対する思いに心を砕いたり、感謝の表現もしてこなかった。そのことにも気づいていなかったと、今懺悔しています。
そして、亡くなって仏様になられた父母は、今もまだ、私に「私たちを生かそうとしている全ての働き(阿弥陀)に気づき、その喜びを感じて欲しいと」「貴方にかけられた阿弥陀様の願を、そのままの貴方を『仏にする』と言う働き」に気づいてくれよ、感じてくれよ、と働き続けて『片思い』されているんです。
『花(を)咲かす 見えぬ力(働き)を 春という
人となす 見えぬ力を 仏という 』真宗大谷派の掲示板より
法事をして、亡き方に「成仏」して戴くのではなく。
この私が、「真実に目覚め、生かされて生きている、本当の私を生きる者と成る」『成仏』することが大事。
念仏成仏是真宗
20024年初秋 院主 遠山久敬
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